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一糸 / いと

兵庫県で唯一残る芸妓のカフェ・バー

「芸(げい)妓(こ)」と「芸者」。「ゲイシャ」は世界で通用する言葉になっています。
 では、その違いは? 調べてみると、芸妓は京都のみで使われているとありますが、有馬温泉でも芸妓と言っています。有馬は平安時代から京都の文化が強く入っているためでしょうか。そのへんの内容を整理して有馬の芸妓さんのブランド価値を高めたいと考えています。そのためには歴史の違いや、昔から続いている風習、伝統をまとめる必要があります。
 有馬ではかつて温泉客の世話をする人々を「湯女(ゆな)」と呼んでいました。室町時代から史料に登場しますが、1883(明治16)年、その呼称は温泉浴場を洋館に建て替えた際に廃止しました。
 以来、湯女はなぜか「芸妓」となっていきます。全国の温泉地にいる芸者さんのルーツも湯女と言われますが、有馬は日本で最も歴史のある温泉地で史料もたくさん残っています。
 1956年に起きた慶長伏見の大震災で有馬温泉は壊滅し、豊臣秀吉は復興策の一つとして湯女に禄(ろく)高(だか)を与えました。それは徳川三代まで続いたのです。
 今でいうなら国家公務員です。江戸中期、人々の往来が自由になると、有馬を紹介する旅本が発行され、「有馬千軒」と呼ばれて賑(にぎ)わいます。その時に土産物として人気を博したのが湯女の浮世絵です。現代のスターのような存在だったようです。それが全国の温泉地にどんな影響を与えたのか。その辺は歴史的事実で証明しなければいけないと考えています。
 有馬で湯女という言葉が史料に登場するのは室町時代からですが、実はそれ以前からいた可能性もあります。語源とされるのは「ゆいな」で、寺の浴場管理をする人をそう呼び、平安時代にまつりごとを占いで決める際に場を盛り上げる踊り子の呼び名だったという説もあります。有馬が奈良時代から天皇が行幸する温泉地であったことを考えると、どちらも有馬が関係していたかもしれません。